褒められるのは最高に嬉しいが、承認欲求とはどう区別する?
タイトルの問いに、自分で答えの出せないまま、今日はつらつらと文章を書いてみようと思います。
朝会社のPCを開くと、先輩からメールが返ってきていました。
先週末提出したパワーポイント、よくできてるね・素晴らしい!という内容でした。
問題を見つけてきてデータとって分類わけしてグラフにして考察もつけて、
人の手を借りながらも一通り自分の力でやり遂げることができたので、
完成したときの満足感も大きかったのです。
さらに話の筋も通っていて、はたから見てもわかりやすい!っていう自信もありました。
褒めてくれたその先輩は、あまり人を直接的に褒めたりしない先輩で、
さらにさらにデータ分析のスペシャリストなので、喜びもひとしお。
あとはこれをみんなに発表するんだ、みんなどんな顔をするだろうか、
どんなふうに行動が変わるだろうか、ドキドキしてなりません。
で、書いてて思ったのですが、私別に褒められたい!と思って、
パワーポイント作り始めたたわけじゃないんですよね。
褒められたのは結果として褒められたのであって。
私が欲しかったのは、「問題の解決」だったんだなぁ。
私の発表によって、みんなが問題の解決に向かってくれればそれが一番良い。
承認欲求を満たそうとして頑張っていたわけではなかったんだ。
なんだか、ホッとしています。
私は、小さいころから親に愛されたいと思って生きてきたと思います。
親は親で、親が子供の頃、私の祖父や祖母から愛されたいと思って生きてきたと思います。
(父方も母方も、祖父は亭主関白過ぎていたし、祖母はそれを支え過ぎていた、今思えばとてもよく似た夫婦たちだったな)
その満たされない連鎖を、私の代で断ち切れそうな気がしています。
おそらく私はその愛されたいというぽっかりと空いた穴を彼に埋めてほしいのだ、と気付いたのはつい最近のこと。
もっと褒めてほしい、できるのに時間のかかる私だからすぐに口出しせずに見守ってほしい。
とにかく「可愛い」と少しでも思ったら、口に出して伝えてほしい。
付き合って半年たったときに、私は彼にこのようなお願いをしていました。
子供のときに親にして欲しかったけど、自分で気付けなかったから言えなかったことだなぁって今ならわかります。
特に「可愛い」と伝えてくれるのは、本当に満たされます。
前にハムスターみたいに愛されたい、ハムスターっていてくれるだけで可愛いでしょ?
ハムスターが何かしてくれなくても、可愛くない、なんてならないでしょ?
っていうつぶやきかブログを見た気がしてますが、本当にそれ。
そうやって承認欲求が満たされると、私の小さな自己肯定感がなんとなくふわっとでてきて、
ようやく「楽しいからやりたい」っていう欲がでてくる気がしてます。
本当に自分が楽しいこと、率先してやりたいことに取り組めるような気がしてます。
楽しくてやって、振り返って、楽しくてやって、振り返って。
そうやってちょっとずつちょっとずつ、前進していければいいな。